ちょっと長い関係のぶるーす

secondhand books 「六月」のブログ

 編集後記

編集長は最初の読者だ。
初校、再校の過程で二回、全篇に目を通す。

今年は国語の授業で『そてつ』原稿を書く際「読者を意識するように……」ということを強調しすぎたせいか、読者のウケをねらった原稿が、少なからず見受けられた。

それは他人を喜ばせたい一心ですることもあるし、書き手の照れくささの裏返しであったりもする。

かく云うわたくしも、まんまとひっかかってしまったのだから、本人と親交の浅い読者におかれては「どきっ!」とさせられることはゼッタイに「間違いない!」しかし、本人にはすでに確認済みなので、心配はご無用である。

印刷屋さんの入力オペレーターさんには、本当に感謝している。

入稿の段階で綿密な原稿チェックをしないまま、判読困難な生徒の手書き原稿を全部どかっと丸投げするわたしは、サイテーな編集者である。

だが、テキスト入力、DTP、プリンタ出力という段階をへて、ほぼ完成品に近い状態で原稿を何度も読んでみると、意外な発見があることに驚かされる。
あえて云わせてもらうが、あんな滅茶苦茶な手書き原稿の状態では発見できないのだから、ひらにお許しを願いたい。

稚拙な生徒の文章の中の誤字脱字や句読点の有無が、全員同じフォントで平等に出力されてくると、逆にその子ならではの切羽詰まった情況や、その子にしかできないギリギリの表現のあらわれとして、そこに見えてくることがある。

わたしには書けない文を書かれた嫉妬だ、ともいえる。

校正用語で、一度訂正した箇所を元の状態に戻すことを「イキ」と書くが、生徒の中の何かがそこで「息を吹き返す」ように思え、あえて間違いのまま校了、としてしまう。

これもまた『電車男』(新潮社刊)のような本が売れる時代なら、許されていいのではないか、などとうそぶいているから、わしも困ったものだ。