ちょっと長い関係のぶるーす

secondhand books 「六月」のブログ

独身の叔母という存在

岡崎武志さんとは同じ学年である。ちなみに田中康夫(申年で還暦)と浅田彰も同じ学年である。田中康夫以外は酉年の早生まれ、だったはず。

先日の「浅川マキの夜」の後片付けをしながら、わしらは歌詞カードなしで何曲も何曲も70年代フォークを歌った。岡崎さんのギターで。フォークソング同好会(部に昇格できない)が音楽室で打ち上げやって片付けしてる時、部長は椅子とか片付けないで音楽準備室でギター弾いてて部長の取り巻きが歌ってる〜みたいな雰囲気だった。

内緒話をするように、申し訳なさそうに、岡崎さんは「わしはねえ〜拓郎を聞いてたんよ」と言われる。もちろん、わしも拓郎は聞いた。名豊ミュージック主催:豊橋丸物屋上入場無料ライブも行ったし、お金を出して豊橋公会堂のコンサートのチケットも買った。
行ってみたら拓郎は病気で来なくて、代わりに遠藤賢司が来た。三島の死んだのが11月で、その年の冬だ。翌年の冬は高校受験だから、そんなヒマはなかったはず。

はい〜、中坊の頃からの筋金入りのアンダーグラウンド志向。

思春期から還暦まで、浅川マキの歌が人生の伴走者であった。男とうまくいかない時やふられた時『寂しい日々』を繰り返し聴いた。『灯ともし頃』はレコードでなくカセットを買ってしまったので、しまいにはテープが切れた。一番効き目があるのが『ナイロンカバーリング』で
「それなのぉにばっちりめぇがさめてぇるなんておもっているんだかぁ〜らぁ〜〜〜〜」
なんて鼻歌を歌っているうちに元気が出て、また次の男を探せばいいんだ、と開き直った。

『少年』と『引越し』も愛唱歌

   みみず鳴く少年は下駄を履いている たまゑ   
この句は『引越し』の影響下にある。

それはさておき、わしの母は鹿児島出身で、武家ではなく商家の出であるが「さつまおごじょ」というか、プライドが高くて、何事にも厳しいのである。それで一人っ子のわしに期待をかけて、もちろん愛情もかけて育て上げたのであるが、ムスメはなにしろアンダーグラウンド志向なので、すれ違いも起こる。ケンカは一度もしなかった。ケンカができる相手ではない。土俵が違うというか、住んでる星が違うのだ。

母には体力がないし、能力的にはわしが母を早々と凌駕した(自転車に乗れるようになったとか蛍光灯の交換ができるとか、複数の出産経験があるとか、だが)ので圧力はかけてこなかったが、母の呪縛からは逃れられないのである。
だから最後まで一度も家出ができなかった。

浅川マキの歌の数々は、重苦しくてめんどくさい母親の呪縛から逃れるために、都会で一人暮らしをしている叔母さんの家に泊まりに行くようなものだった。家出ではなく、ね。
叔母さんは母の妹だけあってわたし以上に母との付き合いも長いし、母の性格もよくわかっているし、その辺りの距離感が絶妙な存在。
女の成長過程において、独身の叔母という存在は新書一冊書けるくらい大きいのだ。まだ誰も書いてないがな。

電車に乗って東京に着く。叔母さんは言う。

「よく、来たわね」

叔母さんには昔は婚約者もいたみたいだが、なぜか今は一人で暮らしている。仕事は何をしているのか詳しくは語らない。無口な人で、わしが一方的にしゃべくりまくる愚痴を全部、聞いてくれて、最後にこういうのだ。

「あんたも、がんばるわね」

下北沢か荻窪あたりの坂の途中にある古いアパートに住んでいて、家具の少ないその部屋にはスチームの暖房がついている。スイッチを入れると蒸気がめぐり始めカーンカーンという音が聞こえてくる。

「浅川マキとスチーム暖房に関する件」はまた後日、書きます。
副題は〜日本の集合住宅とラジエーター暖房について〜なんちゃって。