ちょっと長い関係のぶるーす

secondhand books 「六月」のブログ

うたなるもの

子どもの頃は「歌謡曲」は苦手だった。
小学校1年の時、舟木一夫とか御三家がデビューし、3年の時だったか『帰ってきたヨッパライ』がはやり、『星影のワルツ』とか山本リンダとかも大流行し、6年の修学旅行の宿ではジュークボックスで『花の首飾り』が何度もかかっていた。

GSにしびれてた頃、毎年夏休みには「懐メロ」の特番があり、両親はとても楽しみにして一緒に鼻歌なんか歌っちゃって、んで、わたしがおもしろくなさそうな顔をしていると母は「あんたが大人になる頃には、今、あんたが聞いてるようなうるさい音楽が『懐かしのメロディー』になるんだよ」
と予言しましたが、その通りだった。

去年のクリスマス、マリオットの今岡知美オンステージで彼女は『千の風になって』を歌ったんでござるよ。

「何で歌謡曲なんか歌うだ〜」とA氏は不満げ。
「なんでだ。英語だってだけでJAZZだって歌謡曲じゃないか」とわし。

友ちゃんの『千の風〜』よかった。まいった。秋川なにするものぞよ。

服部良一トリビュートアルバムを聴いて以降、わしの歌謡曲理論は確立したんであるが、要するに声楽的な発声で歌唱するクラッシック歌曲以外のポピュラー音楽は、すべて最後は「歌謡曲」になる、というものである。

フランス語の歌謡曲シャンソンで、イタリア語の歌謡曲カンツォーネで、英語の歌謡曲がjazzやbluesである。

昭和40年代歌謡曲の全盛期以降、やれGSだ、フォークだ、ニューミュージックだ、J-POPだ、なんだかんだとジャンル分けされるようになったものの、行き着くところはみんな同じじゃないか、と。
その兆しは、谷村新司の『昴』(大嫌いだけど)や堀内孝雄の路線から見え隠れしていた。

ロックもヒップホップも、日本語で歌っている限り何十年もたてば「歌謡曲」になっているはずだ。
昨日の夜中、つか今日の未明にやってた小田和正だって中島みゆきだって、今や押しも押されもせぬ「歌謡曲」であろうが。

わしのJAZZの定義は、半拍遅れて、んちゃんちゃんちゃって具合に裏の拍でリズムとってりゃそれで、いいんである。
したがって人前でも「スイングしてなきゃjazzじゃない」などとのたまうA氏(あああはずかしい)とJAZZ談義するのは不毛である。
にもかかわらず昨晩の支払いの時「お前のカード出せ。サインしろ」ってそりゃあない。